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シン・エヴァンゲリオン劇場版 感想(ネタバレ有り)

アニメ

初日レイトショーで観てきました。
一回しか観てないのと、ストーリーより個々のキャラクターの内面、気持ちにフォーカスして観ていたので 間違っているところがあったり、ネタバレといいつつストーリー上のことは何もネタバレになっていない話と自分語りになってしまうかもしれませんが、持った感想を新鮮なうちにつれづれなるままに書いていきます。 考察とかはありません。

まず、観終わって
とてもとてもエヴァだったと思った。
そしてとてもとても良い最後だと思った。

25年観ていてよかった。

25年の自分の成長とリンクして

エヴァ、大好きというわけではないけれど、自分がオタク真っ盛りの頃、TVシリーズから観て、「Air/まごころを君に」も劇場で観て、その後社会人になり、恋人ができて結婚し、子どもを産んで、 ヱヴァンゲリヲン新劇場版、序・破・Qの頃は子育てと仕事で忙しく、劇場では観なくなり、レンタルDVDや配信視聴で流し観て。
今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でやっと子どもが夜留守番できる歳になったので、劇場へ足を運びました。(完全核家族なので子どもを預けて映画に行ける機会が無かった)

そんな感じでエヴァの新作が出るたびに自分の人生のステージが変わっていて、
更にステージが変わる度に自分のコミュ力はUPしていったので、
エヴァの新作を観るときには「さぁ、前のエヴァと今のエヴァの間で監督と自分、どちらが大人になったかな!?」という気分で観ていました。
(大御所に向かってすごい失礼な感じもするけれど、エヴァを観るのにはこれが一番いいスタイルだとも思う)

そして「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観終えて、エヴァのすべてが終わって
「あぁー、私たちいっしょに、人の善意や気づかいが知れる大人になったよねぇ。まだまだだけど、これからはケンスケみたいに与える側にならないとねぇ」という気分です。

もっとシンプルに言えば「(自分を含め)人間を嫌いだったけど、(自分を含め)少しは人間を好きになったよね。」

コミュニケーション拒否オタクだったTV版の頃の自分から、今少しはコミュニケーションが好きになっている自分(オタクかどうかはわからない)の 25年とリンクして、とてもとても良かった。

シン・エヴァンゲリオンのまっとうな大人・歪んでいない人間関係

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」 まっとうな大人がたくさん出てきてくれてよかった。トウジもケンスケも、リツコもミドリも。ほかにもたくさん。

TV版を思い返してみるとやはり大人がひどかったし、人間関係が歪(いびつ)だったと思う。
自分がリアルの人間関係が歪な中で暮らしていると (あと思春期だったから) 、そのTV版のいびつさが心地よい気がしてしまっていたけれども。やっぱりそこへ浸って、浸りきってしまっては良くなかった。

序破Qの大人が、人間関係がどうだったかは見直さないとわからないけど、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は人間関係のいびつさが本当に無かった。

でもその歪さ、歪じゃなさは周りの人間だけのせいかというとそれだけでもなく、自分がどこを見ているのかで変わるものなんだよね。
自分の内面だけにズームしてしまっていたり、そのせいで人の親切をまっすぐ受け取れなかったり。今回そのフレームが外れた感じ、自分の外を見ている感じ。
最初から自他境界とか、そういう話なんだろうけれど、ちゃんと自他を分けて、自分以外の人間のやっていることを見られるようになった。
そこへ到達した感じがよかったです。

あと 株式会社カラー創業10周年記念作品 「よい子のれきしアニメ おおきなカブ(株)」 を観ていたので監督よかったね…!という感じがさらに強まりました。

それから「ニアサーがあったことが悪い事ばかりじゃなかった」との台詞と、エヴァをめぐるガイナックスとのあれこれが重なってそこもウッときました。

でも歪な人間関係の旧も否定するものではなくて、それも自分を形づくるために必要だったものだよね。

ムラとのかかわり・「ミッドサマー」へのアンサー

それと人とコミュニケーションすることは大事でも、それは強制されるものではなくて、自分からしたくなったときにすればそれでよい。村に馴染まないのもあり っていう感じよかったね。

思えば自分もコミュニケーションを取る=ムラになじむ、とりこまれることと昔は思っていた気がするけど、個と個がコミュニケーション取れれば別にムラに入らなくてもよいんだよな。自他境界をしっかり作ったうえで他人と関わればよい。

あれ、これって昨年の映画「ミッドサマー」とも通じる話なのでは。ミッドサマーのヒロインも自他境界はしっかりしつつ、しっかり個と個で話ができればよかったんだ。自他境界をつくらずに受け入れられるムラにすがるのではなく。自他境界をしっかり作って。

そうするとミッドサマー公開時に「観て救われる思いがした」って言っていた人たちは人類補完計画で幸せになった感じなのかな。

それと「ムラになじむ」で思い出したけど「サマーウォーズ」のムラへの溶け込み方は自他境界なくムラにとけこんでる感じある。(私がサマーウォーズ好きじゃなかったの、たぶんその辺りだったんだろうなと今理解)

碇ゲンドウとアスペルガー症候群

アスペルガー症候群の人が身内にいる場合、または自分がアスペルガー症候群の場合などは、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観て「あっ、アスペルガー…」と思ったことと思います。

私も身内がASD、自分もその傾向があること(子どもの頃はより強く、今は緩和されたと思います)で「アスペルガー症候群の話だ…」と思いました。

DSSチョーカーは感情を昂らせると爆発するんですよね。感情を抑制し続けるのも アスペルガー症候群等発達障害の二次障害という感じもしました。

アスペルガー症候群のことを考えながら観ているうちに

  • 自他を俯瞰して見られるようになること
  • 自分の内面だけにフォーカスしすぎないこと
  • 挨拶でもなんでもいいから人と心を通わせるアクションをすること

以上が本当に大事なんだなぁあああと感じました。

ところでアスペルガー症候群のさまざまな特性は一生変わらない!付き合う側が慣れて!という説が多いですが(アスペルガー症候群の身内と過ごすために色々な本を読みました。普通っぽいコミュニケーションを期待しないことが大事とか、コミュニケーションがとりづらいことがストレスになるなら離れてという結論が多かったです。)私は自身(子どもの頃の行動や考え方はアスペルガー症候群にあてはまっていました)の経験から、「変わるときは変わる」と信じています。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観て、おそらくゲンドウの子どもの頃の話の独白や、弱さを認めるうんぬんの話は庵野監督自身のお話しだと思うのですが、そこから俯瞰してこの作品が完成したことに、「変わるときは変わる」が実証されたみたいで嬉しかったです。

追記:シン・エヴァンゲリオン劇場版パンフレットの前田監督のお話を読んだところゲンドウの子ども時代の話は庵野総監督のシナリオと前田監督の創作を合わせているようでした。でもあの独白すごくリアリティありますよね。私も地域の子ども会のお楽しみ会とか全然お楽しみじゃなかった…。

山登り・プレイで内面の見過ぎ抑制、自己の開放

シンジがケンスケに連れられて山を登っているシーンがやたら印象に残っています。
発達障害の子を育てる親の会に行っていたころ、ほかの保護者さんが山!山に連れていくの大事!月1回は山登ってるよ~って言ってたのを思い出しました。(10年以上も前のことなのに)
山に登ることって何か、内面にフォーカスしすぎない効果とかがあるのかな。

あと最後の最後にマリが外してたシンジのチョーカー、どういう意味なんだろって考えてたけど、帰ってから「あっ…そういうプレイ?!」って納得した。たぶんわんこプレイ(一緒にいないときはつけなきゃいけないとか)いちゃいちゃめ~
でもそういう、SMプレイとかで自己を開放するっていうのはあるあるだし、そういうことなんだろうな、と理解しました。

ちょっと古さを感じてしまったところ

些末な事ではあるのですが、ちょっと古いな…と思ったのは
女子職員の身体の線がハッキリ出るコスチューム。
26年前は新しかったけど、今はそういうデザインの服着たい人は着て、身体の線を出したくない人には別のデザインがあっていいんじゃないかな、とか気になってしまった。
(男子職員はあんまり体の線が出ないデザインだし)

それと第三村の仕事の割り振りが農業=おばちゃん達だったり
子を持った人=やさしいおばさん枠 みたいな感じが気になりました。
実際の社会ではミサトやリツコみたいに過酷に闘いながら子育てしてる人たちがいるわけで…。

あと息子が父親にしてやれることは肩をたたくか殺すことだけ、っていうのを聞いた時も、昭和の父息子関係だな、令和の今はもう別の父息子関係がある、と思いました。
でも劇中で「暴力ではなく話し合いを」という形で否定されていたから、それを乗り越えていっている話だということなんだろうけど、この「息子が父親にしてやれることは~」の部分だけ切り取られて使われていきそうな嫌な感じがありました。

その他

まとめるのが難しくなってきたので細切れで

エヴァンゲリオン、すべてを通して「自分含めて人間が嫌い」から「自分含めて人間が好き」になった話かも。
パンフに書いてあったマリ役の坂本さんの「マリは人間がすごく好きなんだと感じます。」を見て思ったよ

リツコがゲンドウのことどんな風に悪く言うだろう(悪く言ってほしい)…って気にしてたけど何も言わないなーと思ってたあたりでめっちゃ迷いのない銃撃してたのよかったです。 (でも新劇場版ではリツコはゲンドウと付き合ってないことになってるんでしたっけ?)

結局大人から次世代に掛ける言葉って
前へすすんで、とにかくやってみて、に尽きるんだよね。
子ども育ててて、どうしたらこの子は幸せを手に入れられるだろうって考えてても結局そこにいきつく。 進み続けて失敗しても、また立ち上がって前に進むしかない。

そういえば富野監督のキングゲイナーもエンディングテーマの歌詞はそんなだったっけ。 (走り出すんだお前は明日への道を)
エヴァもBeautiful Worldの歌詞がそんなですね。(どんなことでもやってみて損はしたって少し経験値上がる)

また何か思いついたら追記します。レイトショーを観て、眠る前にと思いのまま書きなぐってしまったので読みづらくてすみません。白湯を飲んで寝ます。25年前は良さがまったくわからなかった白湯を…(歳をとりました)